昭和49年2月22日井上和之助50日祭
入力・井出一憲
帰幽祭そして合比際50日祭と合わせてお祭りさせて頂いた。形の上には糸簡単でしたけれども言わば大変な難しいお祭りでしたね。これはもうもう形だけなら出来ます。けれどももう絶対あたくしでなければ出来なかったお祭りでした。もうそれこそあの拍手ひとつにもね、使い分けなければならない。と言うようなね神経をそれもあたしが徳があるから、力があるからでけたと言うんでなくて、神様がイチイチお指図を下さるから出来るお祭りです。本当にあのお供え物がああして色々して、そのお供え物ひとつひとつでもこれは帰幽祭、これは合比際これは50日祭と所謂あたくしのね、心の中にあのそれを言わば使い分けでけたお祭り。今日のお祭りを神様へお届けさせて頂いたら、234と言うてね、1のないお祭りと仰った。ね、数字を読むのに123て言うでしょう。それを1を言わず234と言うだからそのひとつの所は、あのね生前の御霊のお礼とお詫びとし、これから又50日後に100日祭、
そん時にはモチットましな本当なね、あの思いを込めての100日祭こん時は只100日祭だけで出来るお祭り、言わばこの50日御霊の式をしましょうから、こりゃ、ね、残ったうならあなたの井上克美さんが、あたしその為にお礼とお詫びの信心を、なさらなきゃいけないと、ね、あー234ですから、それでは根の無い物になって行く、1がなからなきゃ、そこにお礼とお詫びが要ると言う事。生前どのようなお粗末御無礼が重なっておるやら、ね、例えて申しますと、今朝からあたくしはある方のお届けをさして貰った、ある難しいややこしいお願いでした。そしたらあの三味線の上の方のこうなっとるとこは、あれ天神て言うんです。こうねあの糸が掛かってるでしょう。上のは曲がってるでしょう。あそこは天神て呼ぶんです。ね、天神からこう竿がこうあって胴がこうあるわけで、天神のない三味線を頂いたです、と言う事はどう言う事かと言うとね、今そう言う事の願いをしよるけれどもその願いよりもね、
もういっちょ前に詫びをせよと言う事じゃった。その事は神様のお許しも頂かずにしておった事じゃろがと、それが大変ややこしい問題になっとるのです。所が一番始め天神と言う事は、あたしゃ天地金之神の事だと思う。天地金之神の許しも得ずしてこの問題はこうなっとるとじゃろが、だから結果だけを困った事になったけん、どうぞお願いしますじゃでけんち、ね、言うなら信心しよってそこん所お取次ぎも頂かず、お許しも頂かずにしておって今日のこの結果になっておるのであるから、ね、そこん所のお詫びをさせてお取次ぎを頂いてお詫びをして、そして願えと言うもうそりゃ本当に順々としてね、ほんなこてそれどこじゃありませんと言うような、あの御理解頂いた方があります。ね、今日の御霊様のお祭りでもそうです。ね、ほんなら123じゃなくて、234と行くような今日のお祭りだけれども、なら1の所をうならどうしたならいいでしょうか、それは詫びとお礼、ね、
御霊が何十年の間に受けて来たおかげ、又はあー知らず知らずの御無礼、又は知っての御無礼それこそお取次ぎも頂かずに、なしたお粗末御無礼などは随分あろうと思う。ね、ですからそこん所を詫びて行く、そこん所を又は、にも関わらずけこおかげを頂いてと言う、ね、そしたら今日あの最後にお礼申させて頂いたら、お宅のねあの茶碗が?しちゃったでしょうが自分が作ったち言うてから、あれをね大丈夫て茶碗のね銘が打ってあるんです。そのあの大きい方の茶碗ねそれを頂くとですよ。エーットこりゃほんに今日お茶のひとつもね、あの点てさせて貰わなきゃいけなかったなと思ったんですけれども、あの又おりがあったらその大丈夫と言う事がね、けどもこれはね、あたしがこれから又100日祭に向かって、お礼やらお詫びさせて貰う、ね、そすとあなたのその又お礼やらお詫びの修行がこれから出来る。
ね、言う事になったら大丈夫おかげの頂ける御霊として、ね、まあおかげが頂けると言う意味だろうと思うたんですけどね。本当に今日のお祭りは形式だけなさった事だから誰でんでける事。ね、あたくしあのはらい詞ですけども、実ははらい詞じゃなくて今日のは、奏上詞ですよね只今から天地の親神様、こうやって本当に真に不行き届きでございますけれども、ね、帰幽祭て言うなら葬式の事です、ね、お葬式の事から言うならばあの合被祭ここに合わせてお祭りをする、それから改めて50日祭をすると言う、そう言うお祭りさせて頂くからと言う、あの祝詞書かして貰いっと言う若先生書かして貰ったんですけども、それを書くだけ読むだけこう形式をするだけだったら、あの誰でも出来る事。けどもこれはもうあたしでなからなければ、出来ないだろうと思うようなお祭りでございました。もうそれこそ拍手ひとつにも心をくばらなならん、お供え物ひとつにも心分けをしなければならない、
と言うようなまあ難しいお祭りでしたね。これからの信心をですひとつうならお礼とお詫びはどこに焦点を置くかと、今朝からの御理解にね、あたしはいかにそりゃここにおらない人であっても、名前を使っては失礼に当たるからと思って、名前を言わずに丸々としてあの今日の御理解に説いてますけどね、あの映画俳優に伊東雄之助と言う人がいますよ、ね、この人がある芸の場面を頂いたんですけども、この人程言うならばまあ器量が悪いと言うんですか、ね、目は何か三角のような、あー口元何か下品なー、顔は馬ん顔んごとある顔でね、もう何処と取り柄がない、これがもし役者でなくてあの演技力と言うものがなかったら、誰でも相手する顔じゃないですねこの顔は、うん所がその演技力が抜群なんです。ね、そこで伊東雄之助じゃなからなければ、出けないと言う役がチャント廻って来る。しかもほなら演技派としてですたい、ね、性格俳優としてならあれだけまあちんちょうな、言うなら俳優の座を占めておる訳なんですけれどもね、
あたくし共こりゃあたくし自信の事だと思うんです。お前の心の中調度伊東雄之助ごとある。馬んごとあるちゅう事はいやしい心だろうと思う。顔にツラが馬んごつなっとる、ね、なら意地の悪そうな目と例えば言う事は、自分の心の中の本当にまあ神様のお嫌いになる心だと思う。その上何とはなし口元のあの何とはなし、あの下品なねいやらしさと言うか、そう言うものを持った俳優なんですよね。だからそう言う役にピッタリ来る訳なんです、そう言う嫌らしさ戯作下品さと言ったようなものが、あたくしの心にあるけれども、あたしは一生懸命演技力を身につけている。言うならば一切の事をおかげおかげと、有難い有難いと言う頂き方をするようなあたしゃ演技力を持っておる。だから大坪総一郎でなからなければならんと言う役にお取立て頂く訳です。井上克美のあたしゃ信心はね結局あたしこそが、伊東雄之助だと言う自覚に立たなければ駄目だと思う。あたしゃ心は美しかあたしゃ悪い事はせん、
もうそげなだんじゃなか、教えの鏡を前に立てて見ると、卑しい心汚い浅ましい心意地の悪い心様々にある、ね、だからそれに築かせて頂く事が我屑の子の自覚が出来た時と言う事私のようなものに、それでも神様の教えを頂いて、ね、言うならば改まりに改まらせて頂く精進もさせて頂くと同時に、自分の心の使い方言うならば、信心は心の使い方の稽古だと、どう言う風に使うて行くかと言うと、ね、一切をおかげおかげ有難い有難いと言う受け方のでけるような、それもコロコロと変わって行くその心を、有難い方へ有難い方へと転がして行くような稽古をさして頂くと言う事が信心、だからあたくしはそのお詫びの焦点と言うのはその言うなら、伊東雄之助の自覚に立つ事だと思うです本当に。ね、そしてお詫びをさして貰う、そしてそこから自分の心の使い方、有難い有難いと言うおかげを頂かせて貰う、そう言う所にですその有難い心でお礼を申させて貰い、そう改まらせて頂くその自覚に立ってのお詫びと言う事はね、
私は特にひとつ目をつめてね、あの50日後50日間の100日祭を、おそらくされるだろうそん時までにね、あの御霊様へのもう何よりものこれを、あの捧げるものとしてね、信心をさせて頂かなならんと思いますですね。どうぞ。